文芸漫談『伊豆の踊子』

いとうせいこう×奥泉光 文芸漫談3 番外編[映画とコラボ] 川端康成伊豆の踊子』in新文芸坐
に、行ってきました。
仕事後に実家帰省する予定だったけども、伊豆に帰る前に『伊豆の踊子』はやはり抑えておかねばなるまい。
吉永小百合の踊子も観たかったし。
いつもの漫談の後に映画鑑賞という構成で、多分普通に映画を観るより何倍も楽しく観れたと思う。


二十歳の一高生が伊豆旅行中に芸人一座に出会い、可憐な踊子に対して淡い恋心を抱く、みたいな話…?
かと思いきや。
いとうせいこう氏曰く、「これは非童貞小説だ!」と。
…のっけからなんだかすみません。
でもこれ、今まで文芸漫談に通ってきた中で一番感銘を受けたと言っても過言ではない。
主人公は純粋純朴な青年なんかではないのであった。
いや、あくまでせいこう氏の読み方であるが、数々の童貞小説に精通した彼の言には説得力がありますな。
ちゃんとした恋愛はしたことがないけれども、花柳界で遊んで女の体は知っているに違いない。
無邪気に風呂場から真っ裸で走り出で手を振る踊子を見て、童貞が「若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑」いはしないだろう、いくら相手がまだ子供だったとしても。
落ち着き払って目を細めた揚句に「ことこと」笑うこの感じ、むしろおっさん…!
私は、「子供なんだ」と気づいて微笑ましくなったから「ことこと」笑ったんだとそのまんま軽く受け流していましたが。
なるほど、そういう読み方もあったのかー。
映画の高橋英樹はきっと爽やかで純朴だから、映画鑑賞中にそんなことを頭に浮かべないように!とか釘をさしたって無駄ですよ、もうそうとしか見えない…!
最後、踊子たちと別れて東京へ戻る船の中で清々しい涙を流したのは、日常を離れ童貞のふりをして旅をして、「おれ、清くなった…!」という甘い快さを感じたが故。
恋心云々ではないんですねえ。
非童貞の甘酸っぱい青春小説、でファイナルアンサー。


そういえば、恒例の奥泉氏マクラ与太話。
今回は伊豆に新婚旅行に行った時のお話でした。
いのしし村でかわいいいのししを見た後に、いのししラーメンは食べられなかったとか。
食べたくて仕方なかった奥様に未だに「あの時いのししラーメン食べさせてくんなかった」と言われるとか。
伊豆=いのししラーメン、…て、ちょっとそんなあ、奥泉さん…!
それから、イズニーランド、是非とも「おともだちのみうらじゅんさん」に作らせてください、せいこうさん!


それから!
踊子の吉永小百合さまは、とんでもなく可愛らしかったです…!
ああいう人のことを可憐というのだなあ。
高橋英樹は顔が濃ゆかった!
原作とはちょいちょい違う部分や追加エピソードもあったり。
最後の船上で泣くシーンは無いんですねえ。
んで、さすがに1963年の映画なので、音も映像も作りも古かったけども、あまり古い映画を観たことがないのでむしろ新鮮。
別にそんなでもないのに、さあさあとんでもないことが起きますよ的な、今から人でも殺しに行くんですか…!的な音楽につい笑ってしまったりして。(失礼)
漫談でつっこんだシーンでは会場から俄かに笑い声…!
これぞ、いとう&奥泉マジック。
まあとにかく、吉永小百合の可憐さだけでもこの映画には価値ありだと思います…!
山口百恵の踊子も観てみたいなあ。


ええと、あとはとりとめない覚書。
この小説は「自然と私がうす暗く野合している」小説
恋愛小説ではない
恋愛小説の定義=他者と出会って影響をうける
漱石の小説の主人公は、他者と関係を結ぶうえでの失敗を恐れている
だが、「伊豆の踊子」にはそういった他者との関係性の緊張がない
他者の人格がない
踊子はむしろ主人公にとって旅の風景
最後まで踊子のことは名前ではなく「踊子」と呼んでいる
このうえなく愛玩しているけどね
踊子の台詞はたまに秀逸、かわいさが秀逸
「打てるね、打てるね」(ライムイエロー色。 byいとうせいこう
「いい人はいいね」


異人 ⇔ 常人
   橋
折に触れて橋の描写が出てくる
共同体を離れ旅に出て異世界を訪れ、そしてまた共同体へ戻る
橋はその境界
いくら仲良くなったとしても、漫遊しているエリート学生の主人公と、差別対象であった旅芸人たちとの間には、やはりくっきりとした区別がある
主人公の目を通して読者も旅情や異世界を感じる
エキゾチシズム
外国人が日本を見る目と同じ