シュルレアリスムルームにようこそ

横浜美術館

横浜美術館で開催中の「シュルレアリスムと美術」展へ行ってきました。
ルネ・マグリットサルバドール・ダリイヴ・タンギーが好きな私としては、これは外せない是非とも行かねば!ということで。
とか言いつつシュルレアリスムにさほど造詣が深い訳ではないのだが。
上記の画家達の、写実的な筆致で描かれたどこか奇妙でバランスを欠いた心象風景が好き。
今回はもちろん彼ら以外の作品も展示されていて、それらを見るのが楽しみでもあり。
が。
正直解らない…ぞ。
好きだが解らない。
いや、よく考えたらマグリットもダリも解ってる訳ではないよな。うーん。
マックス・エルンストのコラージュやらアンドレ・マッソンの自動デッサンやらと対峙しつつ、歩を進めるごとに迷宮の渦へ…ぐらんぐらんと揺さぶられながら。
揺さぶられながら一つ確信したこと。シュルレアリスムに限らず、絵画つまりはイメージを「解って」はいけないのだ。きっと。
「解った」時点でそのイメージは閉ざされてしまうような気がする。
そして言語ではイメージを完全には咀嚼はできない。
だからこの日記が支離滅裂だとしても仕方のないことなのだ…!(と、己の貧弱な感性と言語力無さへの言い訳を無理矢理してみる。笑)


シュルレアリスム、「超現実主義」。
理性や規範などに囚われず、ありのまま忠実に内なるものを表す。
画家達が世界と接して見て聞いて識って、そして自分の精神というフィルターを通してキャンバスに映し出された「現実」。
決して只の妄想なんかではない。
鋭く純粋な程に「現実」なのだ。
そうやって現実を描くことが彼らにとっての、世界との「根源的な接触」なのだろう。
シュルレアリスム=精神。
シュルレアリスムの美術は「美術」ですらないのかもしれない。
「美」を表すことを目的とはしていないから。
精神を絵画として表した結果、それを受け取った人が「美」を感じる、そういうことなのかもしれない。
キャンバスに封じ込められた先人たちの「精神」の有りようはとても美しいと私は感じた。
見ていると不穏な気持ちにさせられたりもする。
人間の内なるものを表すという衝動は、怒りや悲しみや疑念や反感などのマイナスエネルギーに、より強く作用されるのかもしれない。
そしてそれにひどく惹きつけられる。
前出のマグリットやダリの作品は言わずもがな、オスカル・ドミンゲス「無題(デカルコマニー)、マックス・エルンスト「灰色の森」、ロベルト・マッタ「ハート・プレイヤー」が好き。


まるで自動記述かのように書き殴ってしまい自分でも意味不明。
でもそこに世界の真の姿が存在するかもしれないよね、うん。(大法螺)



芸術の秋を堪能した後は、横浜でぐるぐるお買い物。
友人の誕生日プレゼントや来年の手帳を購入。
そして夜に有楽町にて、昨日から公開の「クワイエットルームにようこそ」を観賞。
なんだか地元ではやってくれない臭いのでついでに見てしまえ!と思い付きで。
良かった。面白かったです。
やはり私は松尾スズキ氏の描く世界が好きなようだ。
タブーに対する姿勢も含めて。
そしてやはり彼はまごうことなく「面白の国」の住人だな。うらやましい。
…私もそっちに住みたい(ぼそ)
でも身の丈に合わないことをしようとすると明日香みたいになってしまうかもしれないからね。
原作を予め読んでいたのだが、原作世界がより広がって鮮やかになっていたように思う。
終わり方も映画の方が好き。
スクリーンの中には「普通ではない」人が沢山いて壮絶な光景が繰り広げられていて。それでも何故だか温かい気持ちになった。
生きていく勇気をもらった。…大袈裟。でも嘘ではない。
しかしほんと「普通」ってなんだろうな。
そんなものこの世にはないのかもな。